為那都比古神社

     北摂の歴史 監修/富田好久 郷土出版社 1998年発行より

 平安時代の延長五年(927)にできた『延喜式神名帳』豊島郡の部にみえる「為那都比古神社二座」は、現在箕面市石丸二町目(元白島)に鎮座している。比古、比売の二神を祀ることから二座といえる。同社はもと別殿に分かれていたが、明治期の神社合併で比売神が合祀されて現在のかたちになった。
為那都比古神社 鳥居前 為那都比古神社 正面
為那都比古神社鳥居 境内
 鎌倉時代の正嘉三年(1259)当時は「西天王」と呼ばれていた同社(比売神を祀る社)(勝王寺文書)の跡地は個人の宅地から箕面市の管理地となっているが、いまなお太古を偲ばせる樹林がうっそうと繁っており、神霊の宿る鎮守の社のままである。(所在地=白島三丁目)
医王岩  この森からおよそ200m程坂道を上がった山地の斜面には「医王岩」とか「薬師岩」と言われる巨岩がたっている。この岩については江戸時代の享保二十年(1735)の『摂津志』為那都比古神社の条に「白島村にあり、今天王と称す、萱野谷十村敬畏して祭りを修す、寺あり、号して大宮寺という、寺後に巨岩あり、名づけて医王岩という」と記されている。 また、寛政年間(1789〜1801)の『摂津名所図絵』もこの巨岩について「自然石なり、高さ13丈ばかり、又の名薬師岩ともいう、播州静カ窟、石の宝殿の類也、此所も大己貴(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)の二神生ますの地により医王岩と称するか、この二神は医道の祖也」と述べている。

 巨岩が医王岩などと呼ばれることになったのは、薬師如来を本尊にした大宮寺の開祖後のことであろう。だが、巨岩から大己貴・少彦名命の二神が生まれたと伝えられることは注目されることである。 

 原始・古代の社会では、このような巨岩はもとより、巨岩・巨樹や山頂・叢林(ぞうりん)などは神霊が宿るところとされた。それはまた神が地上の人間社会に降臨するときの「依代(よりしろ)」であると考えられ、人の側からすれば「招代(おぎしろ)」となるところであった。しかし、後に神の常住する社殿が建てられた時代になると依代は不用になり、社殿はだんだん人里に近く建てられるのが一般になった。大宮寺の場合もまた巨岩の依代に代わって社殿が人里に近い旧社地にたてられたのである。

 ところで、仏教では医道の祖とされる二神は、原始信仰の上では地主神・農業神と考えられた神々である。したがって、こうした神々を巨岩から生み出し、やがて社殿を建ててそこに二神の常住を願い、大宮神社と呼んで崇敬したのは、神社の前面に村をつくり、ひたすら農耕に励んだ古代の農民たちであった。それは天保二年(1831)の『白島村差出明細帳』(白島共有文書)にみえる「白島・東西坊島・如意谷」四か村の鎮守が同社であったとことからも明らかである。また同帳での社名が「大婦天王社(たいふ)」と記されているのも、祭神が農耕神である事を語っている。山中の巨岩から農耕神を生み出し、生産の豊作と生活の安定を願った先人たちの自然観が知られる旧跡といえよう。


摂津八十八ヶ所 第五十六番霊場 高野山真言宗 「宝珠院」 安産子安観音